「お経を読む」
それはとてもご利益があります。では、ご利益とは何でしょう?お経を読むと、何かもらえるということではありません。「手放す」ということです。手放すことで、「自由なこころ」を得ることができます。
わたしも、迷いや不安から解放された自由なこころになってみたいと常々思っています。
さて、わたしからの問いかけは、自由なこころ得るために「何を手放しましょうか?」ということです。
禅の言葉に「禅定(ぜんじょう)」という言葉があります。精神を集中すること、心のざわつきを止めるという意味です。禅定を得るには、⑴姿勢を正して⑵呼吸を整えて⑶心をととのえるという一連の流れがあります。禅定を得ると、心に余分なものがなく、いまやるべき本分に集中でき、すがすがしい気持ちになります。心の余分なもののことを私は「心の荷物」と呼んでいます。心の荷物こそが、わたしたちがすでに持っている「自由なこころ」の重荷になっているのです。
お経を初めて読んだ人は、きっとこう思うと思います。
「何か難しい言葉が並んでいるなぁ。」
「意味が分からないなぁ。お経の意味を知りたいなぁ。」
「うまく読めなくて恥ずかしいなぁ。」
「お経を間違えてしまったら、どうしよう・・・。」
「お経を読んだら、どんな良いことがあるのだろう?」
これらすべてが、心の荷物です。
心の荷物とは、「とらわれる心、こだわる心、かたよる心」のことです。
禅定とは、「お経を読むときには、お経の一字一字を読むことに集中する。」途中の休憩では、「お経を読んでいたことも忘れて、しっかり休憩する。」という働きです。瞬間瞬間、その場その場に一生懸命になるということです。「一行三昧(いちぎょう ざんまい)」とも言います。
「この秋は 雨か嵐か知らねども 今日のつとめに 田草とるなり」
二宮金治郎の詩です。田んぼの世話をしているときに、
「秋に嵐がきたら収穫できないから嫌だなぁ」
「日照りが続いて稲が育たなかったらどうしよう」
「隣の人の田んぼの稲は元気がいいなぁ。それに比べて私の稲は・・・」
などと考えても、今日のつとめは、草をとることなのです。
「自由なこころ」
それは、生まれながらにすべての人がもっています。しかし、年齢を重ねるということは、心の荷物も背負っていくということなのです。
お経を読むことに集中して、とらわれ、こだわり、かたよりの心から離れましょう。
そうしたら、「とらわれない、こだわらない、かたよらない自由なこころ」が手に入ります。
お経を読み終えたら、その自由なこころだけを家に持ち帰ってください。そうすると、自然と良い縁に恵まれることでしょう。
自分の内にある自由なこころに気付くことが、お経を読んで得られるご利益なのです。