落語が好きでよく聞いています。昨年末に放送された立川談志一門のドラマはとても面白かったです。
談志さんは、落語は「業の肯定」という話をされていたそうです。落語を聞いてみると、話の主人公はとても人間らしい、というかどこかマヌケな人がよく登場します。お酒をのみたくて知恵を働かせる人とか、異常に臆病な人とかです。
落語の主人公ほどではないかもしれませんが、私のなかにも、落語の主人公のような一面が多々あります。そんな一面を否定しないで、笑ってもらえるととても生きやすいものです。自分のダメなところや失敗談を話して笑ってもらえるのも嬉しいものです。
調べてみると、「業」は仏教語らしいです。「人間の行い」が本来の意味のようですが、現代では、「悪業」とか「業が深い」といった使われ方が多いです。よくない行いを指摘するときに使われています。
私の業が浅いのか深いのかはわかりませんが、生きる道はどうしても自分の理想どおりにはいかないもので、怠けてみたり、失敗してみたり、反省してみたりを繰り返しています。それを周りの人から否定されると、もれなく落ち込みます。
ところで、仏教へのイメージは人それぞれだと思いますが、「やってはいけない決まり事が多そう」「お坊さんに説教されそう」などのイメージを持つ人もいるのではないでしょうか。私もお坊さんになる前はそのように思っていました。
しかし、イメージと実際は違っていて、私が仏門に入ってから、自分の人間性を否定されたことはなかったです。また、「あぁしなさい」「こうするべきだ」という道徳的なお説教もされたことがありません。これが、お坊さんになる前と後に感じた、大きなイメージのギャップです。詳しい道順を教えてもらえない代わりに、しっかりと自分で考えて行動することが大切だと感じています。
仏教が道徳的な説教をせず、人間性を否定をしないのは、その人のなかの「気付き」を大切にしているからだと思います。
迷いと気付きを繰り返しながら、自分の生き方を模索していくような生き方を、まるごと肯定してくれるのが仏教なのでしょう。
そして、笑いは一瞬で心を軽くしてくれるものです。仏道と落語道。落語がもっと好きになりました。